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第2話 七年間の帳簿

last update 公開日: 2026-10-01 21:00:01

書類の端を持つ長老の指が、私の目の前でわずかに動いた。取り上げられると思い、私はその手を押さえた。

「破いたりしません。確かめるだけです」

「皆が待っている。手短に頼む」

 長老はそう言いながらも、書類を離さなかった。私は紙の中央にある品目と数量を読み直した。保存食の樽が十二、医薬品の箱が四。受領者の欄は空白で、行き先も書かれていない。このまま倉庫から運び出せば、誰に渡したのか後から調べようがない。

 私の署名は最下段にあった。少し右へ傾く癖も、最後の文字で筆を抜く方向も、自分のものに見える。昨夜から考え続けていた不足の理由が、この一枚で説明できるようになってしまった。

「三日前に、ガレスから受領確認の紙を渡されました。そのとき署名したのは事実です。でも、私が見た紙には、物資を出庫するという記載はありませんでした」

 広間の後ろで、誰かが「見ずに署名したのか」と言った。責められても仕方がない。私も帳簿を預かる者が同じことをしたと聞けば、なぜ読まなかったのかと思う。

 ガレスは演壇を降り、私の隣へ来た。いつもなら人前で困った私に肩を貸すときの距離だったが、今夜は一歩近づかれただけで身構えてしまう。

「俺が渡したのは、倉庫へ入れる油の受領確認だ。あの書類に署名したことと、これとは関係ないだろう」

「油の受領確認だったのね」

 私は彼を見た。三日前、彼は出かける間際に折った書類を持ってきた。急いでいるから署名だけしてほしいと言われ、開いた上半分の日付と受領欄を確かめて名前を書いた。油の文字があったかどうか、思い出せない。

「それなら、その受領確認はどこにあるの。倉庫に油は届いた?」

「届いているはずだ。そんなことを今、俺に聞くなよ」

「あなたが渡した書類だから聞いているの」

 ガレスは答えず、長老が持つ紙へ目を落とした。私はそれ以上、署名のことを追及しなかった。記憶だけで押し通せる相手ではないし、油については倉庫で確かめればいい。

 書類の上端には、綴じ糸を通すための小さな穴が二つ開いていた。穴の周りに薄い擦れがある。私の帳簿では、出庫許可書を一日分ずつ束ね、左上を麻糸で綴じる。これは一度、束から外された紙だ。

「この書類は、どの帳簿から取り出しましたか」

「倉庫の出庫簿だ。昼の検査で見つかった」

 長老は私の手元を見た。私はまだ祝祭に持ってきた帳簿を抱えている。今朝まで手元にあった記録だ。

「それは、私が持っている簿冊とは別です。倉庫番が受け取る控えですね。そちらの前後に綴じられた書類も見せてください」

「今ここにはない」

「では、倉庫で確認させてください。私の署名が本物でも、何が書かれた紙に署名したかは、まだ確かめられます」

 長老は眉を寄せた。調査を拒むつもりなのか、祝祭の場で議論を長引かせたくないのか、私には判断がつかない。

「倉庫は封鎖した。書類に触れられる者も限っている」

「立ち会っていただければ触りません。順番を見るだけです」

 そこまで言ってから、私は背後の気配に気づいた。ガレスの父に仕えてきた古参の者も、配給所へ毎週荷を取りに来る母親たちも、こちらを見ている。私が説明を重ねるほど、明日の食事を心配している人たちを待たせる。

「今すぐの確認が難しいなら、先に不足分をどうするか決めてください。保存食は明日の朝に配る予定でした」

「自分の容疑があるのに、まだ指図をするのか」

 長老の声は低かった。私は返しかけた言葉を飲み込む。ここで彼を怒らせたところで、倉庫の扉は開かない。

 イーダが人垣から進み出た。ふだんは相手が長老でも言い返す彼女が、今は慎重に言葉を選んでいるのが分かった。

「明日の朝の配給については、私が残っている品を数えます。リヴィアに尋ねなければ分からないこともありますから、仕事の話だけはさせてください」

「イーダ。あなたまで関わる必要はない」

「関わらないわけにはいきません。配給所で働いていますから」

 長老はしばらく彼女を見ていたが、やがて書類を折らずに筒へ戻した。

「明日の分は別に手配する。リヴィアは調査が終わるまで帳簿にも倉庫にも近づくな。今夜は自宅で待機しなさい」

 私は了承した。近づけば、後からまた何をしたか疑われるだろう。ただ、自宅で何を調べられるのかは分からなかった。

 ガレスが一歩前へ出た。

「俺が送っていく」

「結構です」

 反射的に断ると、彼は傷ついたような顔をした。私はその表情を見て腹が立ち、すぐに、自分がまだ彼の顔色を気にしていたことにも腹が立った。

「もう皆の前で言いたいことは言ったでしょう。ここからはイーダと話します」

「リヴィア、落ち着いてくれ。書類の件も調べる。君に不利なことを、俺だって望んでいない」

「だったら、さっき私に黙っていろと言った理由を教えて」

 ガレスは口を開いたものの、言葉が続かなかった。セレスが演壇から降りてくる音が聞こえる。彼女はガレスの隣に立たず、長老に何かを小声で尋ねた。

 ガレスの返事を待つのはやめた。私が歩き出すと、イーダが黙ってついてきた。広間の扉を開けた途端、夜気が熱くなった頬に触れる。外には祝祭の料理を運ぶための台車が並び、焼き林檎の甘い匂いがまだ漂っていた。

「一緒に家まで行くわ」

 イーダが言った。

「明日の準備があるでしょう」

「今夜は倉庫を開けてもらえないわ。ここであなたを一人にしても、できることはない」

 彼女は言い切ったあと、私の手にある帳簿を見た。

「……ごめん。私も、あの署名を見て驚いた。あなたが物を持ち出したとは思わないけど、どうしてあんな紙があるのか、私には分からない」

「私にも分からないの。見ずに名前を書いたのは間違いない。それを聞いて不安になるのは当然よ」

「不安にはなった。でも、あなたが明日の配給を先に気にしたのも見ていた。私は両方覚えておく」

 私は礼を言おうとして、うまく声が出なかった。イーダは気づかないふりをして、私から帳簿を受け取る。いつもなら返してと言うところだが、今夜は持ってもらった。

 私の家までは、広間から歩いて十分ほどかかる。その道を七年間、ガレスと何度も歩いた。彼が仕事の愚痴を言い、私が翌日の予定を話し、意見が合わないまま家に着いてから続きを話すこともあった。今はイーダの靴が小石を踏む音を聞きながら、三日前の紙を思い出そうとしている。

「出庫簿はね、一日の書類を綴じたあと、表紙にも件数を書くの」

 私は歩きながら言った。

「昼の検査で出てきた書類が後から挟まれたものなら、表紙の件数が合わないかもしれない。倉庫番の控えを見られれば分かるわ」

「あなたが持っているほうには、出ていないのね?」

「少なくとも、今朝見たときはなかった」

 イーダが足を緩めた。

「だったら、あなたの帳簿を今のうちに誰かに見せたほうがいいんじゃない? 明日になったら、また話が変わるかもしれない」

 もっともな心配だった。私は抱えてきた帳簿を開き、三日前の頁を探した。祝祭の明かりから離れた道は暗く、月の光だけでは細かな字が読みにくい。家に着いたら灯りをつけ、イーダにも立ち会ってもらおう。

「家で確認して、長老に渡すわ。あなたにも頁を見てほしい」

「分かった。私が読める数字だけでも、ちゃんと見る」

 イーダは少しだけ笑った。彼女は帳簿仕事が嫌いで、数字を見るとすぐ私に渡してしまう。それでも引き受けてくれたのが嬉しかった。

 家の前まで来ると、窓に灯りはなかった。ガレスが持ってきた上着を返すとき、どんな顔をすればいいのか。そのことを考えながら鍵を探し、私は扉の前で手を止めた。

 錠には私の鍵が差せない。上から新しい留め金が取り付けられ、群れの封印を示す細い紐が結ばれていた。

「自宅で待機しろって、長老は言ったわよね」

 イーダが扉を確かめ、封印を破らないよう手を引いた。

「言った。私も聞いた」

 家の中には、今朝まで使っていた筆も、ガレスの上着もある。倉庫へ近づくなという命令は分かる。けれど誰が、いつ、私の家まで封じたのか。

 私は手元の帳簿を開いた。何かを確かめるなら、まずは持ち出せた記録からだ。イーダに頼んで、道の角にある街灯の下まで戻る。

 三日前の頁には、油の受領記録があった。油は確かに倉庫へ届き、受け取ったのは倉庫番で、私の署名はない。ガレスが私に渡したという受領確認とは、少なくともこの帳簿の記載が合わなかった。

「イーダ、ここを見て」

 私が日付を指すと、彼女は帳簿と家の扉を交互に見た。

「これ、今夜のうちに長老に見せられる?」

「見せる。ほかにも確かめたいことがあるけど、まずはこれを」

 帳簿を閉じたとき、祝祭の広間のほうから足音が近づいてきた。二人の見張りが、まっすぐ私の家へ向かってくる。先頭の男は私を見つけると、封印のついた扉の前で足を止めた。

「リヴィア・フェン。長老から、家には入れないと伝えるよう命じられた」

「さっきは自宅で待つように言われました」

「命令が変わった。中の書類を調べるそうだ」

 私は帳簿を胸に抱え直した。自分の家に入れないと知った驚きより、今ここにある一冊まで取り上げられるかもしれないという考えが先に立つ。

「分かりました。では、どこで待てばいいか、長老に確認してください。それから、この帳簿には今夜の告発に関わる記録があります。私とイーダが一緒に持って行きますから、調べる人の前で開かせてください」

 見張りはすぐには返事をしなかった。私も動かずに待った。広間から漏れる音楽はまだ続いている。祝いの夜が終わる前に、私の知らないところで決まったことが、いくつあるのだろう。

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